私の神さまがいなくなってしまう話

わたしは、しがないオタクをしています。

好きなものを見て、聞いて、楽しんで、幸せになれるオタクです。どこにでもいるような、なんの変哲もないオタクなのですが、ここ3年間くらいずっと、とあるひとつのコンテンツを崇拝してきました。

 


たぶん、2.5次元とか、若手俳優とか、そういう沼にいる人は聞いたことあるかと思うんですけど。


「MESSIAH(メサイア)」という作品です。

2013年からプロジェクトがスタートし、舞台10本、映画4本、ドラマ1本を展開してくれました。

私は、アニメやドラマでいうセカンドシーズンみたいなものにあたる「刻シリーズ」からの参入なので、比較的新参者かと思います。

それでも、現場には全て通ってきました。

 

 

 

このメサイアが、たぶんですけど、2019年9月23日を持って終わりを迎えるんじゃないかと思っています。

 

 

 

私がメサイアと出会ったのは、2016年でした。

刻シリーズが始動する、という告知ツイートが回ってきたのがキッカケだったと思います。


その頃の私はまだ2.5次元という界隈に足を踏み入れたばかりで、脚本演出の人も「あ!この人の名前なんか見たことある!」とか、キャストも「●●の舞台で××の役やってた人だ!」みたいな基準で観劇する作品を選んでいました。

最初、メサイア刻シリーズの初回作品である、舞台「メサイア暁乃刻」も、安里さんと山田さんが出ているから見に行ってみるかー、みたいな感じでした。

(ちょっと前に、原作が大好きな黒子のバスケの舞台を見に行っていたので、完全にその影響です)


私に2.5次元を教えてくれた友達が、以前のメサイアの舞台に熱心に通っていて、メサイアという作品の名前だけは知っていました。その友達に「次のやつ見に行こうかなって思ってるんだけど、あれってシリーズものやんね?」と尋ねてみたところ、「そうだよ。過去作知ってたほうが楽しめると思うから、DVD貸すよ。見て」と言ってくれました。

加えて、GYAOだったかな、過去作のドラマと映画が無料で見られる期間だったので、それも見てみようと思いました。

なので私は、初めて現場に入ったのは暁乃刻という舞台ですが、初めてメサイアというコンテンツに触れたのは影青ノ章というドラマになります。


影青ノ章は、30分の短編ドラマが全6話の構成になっていました。

最初は設定もなにも知らず、メサイアの鉄の掟(作中で何度も出てくるので嫌でも覚えます笑)を見ても「ふーん」くらいの感覚だったと思います。まとめて30分を6本見る時間がなかったので、おうちで晩ご飯を食べるときに一本ずつ見よう、と思って、のんびり見始めました。

 

でも、見始めて3日目あたりで、続きが気になりすぎて1日1本のペースを守ることができず、全て一気に見てしまったことを覚えています。

影青ノ章のキャストさんは、当時の私が別段ものすごく知っている方はいなかったので(名前は知っている、有名な人だ!くらいの認識でした。今思うと、その頃本当に若手俳優のことなにも知らなかったんだなあ、と思います)、ただ単純にお話が面白く、登場人物たちの感情の揺れ方に共感して、この人たちが今後どうなっていくのか知りたい!という気持ちで見ていました。

メサイアについてなにも知らなかったため、他の作品が見たくて見たくて堪らなくて、順番をめちゃくちゃにすっ飛ばして、次に深紅ノ章を見ました。

登場人物が少し変わっていて、理解するまでに時間がかかりましたが、これもすごく好きだなあ、と思いました。


そうこうしているうちに、友達からメサイアのDVD全巻セット(銅〜鋼まで当時発売されていた円盤すべて)が届いて、それを二週間足らずで全部見ました。

順番をすっ飛ばしてしまった影青ノ章、深紅ノ章を踏まえてきちんと整理してみたら全てのお話が繋がって、最初敵対していたふたりがちゃんと時間をかけて相棒になっていく姿や緻密なミッションの構成、有り得ないはずなのに有り得てしまうであろうそのリアリティが、どれも本当に魅力的に感じました。どの作品を見るのもワクワクして、そのワクワクを全ての作品が上回ってくれて、一気にメサイアの世界に飲み込まれました。


そして迎えた暁ですが、DVDとは比べものにならないほど泣きましたし、正直に言うと記憶がほぼありません。

でもそのとき、涙は感情より先に出るものなんだな、と思いました。

終わった直後のツイートに「これはコンテンツ自体を好きになってしまうんじゃないかなあ」なんて呟いてましたが、本当にその通りになりました笑


舞台を見終わったあとの余韻も、大きかったと思います。セリフひとつひとつ、そのときの表情、仕草、対峙する相手の姿、全部思い返して思考を巡らせました。

元々考察が大好きなオタクなので、たった一回だけの観劇でも得た場面場面の考えを深めて考察すれば、点と点が繋がっていくらでも新しい発見がありました。


暁にたった一回しか行かなかったことを死ぬほど後悔して、そのあとの悠久からは大阪公演の全ての公演に入るようになりました。

日替わりが楽しいのはもちろんでしたが、毎回どんどん変わるお芝居を見られるのが堪らなく幸せでした。感情を剥き出しにして、板の上で、本当に死ぬんじゃないかとすら思うほどのお芝居をしてくれるキャストの方々が大好きになりました。

 


メサイアは、稽古開始から3日間くらいは、テーブル稽古というものをします。

キャストスタッフ全員で顔を突き合わせ、ホワイトボードを真正面に置きながら、セリフひとつひとつ、場面ひとつひとつの意味と解釈を掘り下げる稽古です。

違和感と歪みを全員でひとつずつ直し、全員で共有することによって、圧倒的な深みになります。

メサイアは、人を殺すスパイを題材にした作品ですが、人を殺したこともない一般人の私たちが恐ろしく感情移入してしまうのは、テーブル稽古のおかげなんじゃないかなあ、と思っています。


他にも、メサイアを見るようになって、板の上に立つ役者以外のところも気にするようになりました。


メサイアの、圧倒的に手数の多い殺陣をわかりやすくしてくれる音響さん。

すごく今更なことを言うんですけど、殺陣って音がないと本当になんにもわからないんだなってことを、メサイアを見て知りました。

メサイアの殺陣は、一気にふたりを相手にする役者が舞台上に3人いたりすることがあります。計6人が、同時に動き、全員違う動きをしている。その場面でも、ひとりひとりの動きを追うことができるのは、音響さんのおかげです。誰に注目しても、その人がなにをしているのかがわかる。「あ、避けられちゃった」「蹴り、止められた」「そこから撃つんだ!?」そういうことが、6人同時に動いていてもちゃんとひとりひとりわかるんです。

一度別の舞台を見に行った際、音響がズレていたことがありましたが、びっくりするくらいなにもわかりませんでした。視覚の情報と聴覚の情報が一致しなくて、頭が混乱するのかな?誰がなにをしているのかわからず、舞台上の光景が目の前を素通りしているような心地でした。


あと、殺陣もそうなんですけど、「作業」としての殺陣ってすごくわかりやすいなあ、と思います。

勢いがなくて気持ちが入ってなくて、淡々とした「作業」みたいにこなされる殺陣は、すごく気持ちが冷めます。


あと、衣装さん。メサイアの衣装は布が多めなのですが、殊更くるりと回る動きが多い方の衣装は綺麗なラインが描けるようになっていて、ふわりと広がるのがものすごく美しかったです。

山田さんなんかはバスケをされていて、その動きが殺陣にも取り入れられているんですけど、くるりと回って敵を斬る姿はかっこよく、衣装も相まってとても美しかった。

他にも、セミオーダーなので、キャストひとりひとりの体型に合わせて微調整される衣装が本当にありがたいなあ、と思いました。

悠久では、キャストの衣装をほぼフルオーダーで作ってくださったり、衣装さんのお給与に反映されているのかどうか私は存じていませんが、キャストひとりの要望を聞いてフルオーダーで衣装を作ってくださったこと、本当に心から感謝しています。


メサイアに出会うまで、やはり舞台で目立つのはキャストさんで、あと演出と脚本、なんて思っていた自分を恥じたいです。

舞台はチームプレーで、音響も照明も衣装もヘアメイクも、クレジットに名前のないたくさんの方が総力を尽くして仕上げてくださって、だからあんな奇跡みたいな空間が出来上がるんだなあ、と教えてくれました。当たり前のことなのに、なにも知らなかった。


舞台の新作を見る前は、「この舞台は本当にすごいから、こんなふうになるんじゃないかな!?余すことなく見なきゃ!」と思って劇場に向かいますが、いつもそれ以上のものを返していただいて、ボロボロになって劇場から出てきていました。

自分がどれだけ覚悟を決めて観劇に行っても、赤子の手をひねるように、それを圧倒的に凌駕したものを見せつけてくれます。

何度見たって芝居が変わり、演出家だけでなくキャストの意見も反映されて、脚本演出が変わります。同じ演目の舞台だけれど、得るものは毎回全部違っていて、ひとつとして同じ舞台なんかないのだということを、まざまざと突きつけてくれました。


私は、メサイアのことをひとつのコンテンツとして心から信頼しています。

私に舞台というものの奥深さを教えてくれました。

映画もドラマもありますが、やはり舞台が一番だと思っています。メサイアは、舞台でこそ表現されるべきコンテンツだと思います。

ここまで信頼できるものに出会えるって、ものすごく幸せです。

メサイアとしては「刻シリーズ完結」とおっしゃってくださってますが、次シリーズの情報がなにもない以上、これはメサイアという作品自体の終わりなのだなあ、と感じています。

 

私にとっての、奇跡が具現化した神さまみたいな作品でした。

演出脚本、キャスト、裏方のスタッフさん、お客さまのことも大好きです。全部大好きです。

感謝を伝える術を持たないので、この気持ちはアンケートとお手紙に書き留めておきたいと思います。


今は、東京へ向かうバスの中でこの文章を書いています。

あと3公演、私にとっても、メサイアにとっても残り3公演となる黎明乃刻を、思いっきり楽しんで、惜しんできたいと思います。


ただの自己満の文章なのでオチとかないですし、感情的でお見苦しい部分もありますが、読んでくださってありがとうございました。

黎明乃刻に至るまでの、御池万夜と彼を取り巻く者たちについて

前に、主演ふたりのことについて、そりゃもう長ったらしく自分の中の考えと想いを綴って整理したんですけど、もうひとり絶対に整理したい人がいるんですよ。

なにを隠そう、私は子細胞持ちなので、自分の教祖については語らないと終われないじゃないですか……。

御池万夜と、彼を取り巻く人たちのことも改めて整理したいので、月詠から振り返っていきたいです。相変わらず、私の勝手な考えばかり(なんなら子細胞持ちなので、御池万夜に対してだいぶ偏っているかもしれない)なので、読んでくださる方は気をつけてくださいね!!!

(※ここから宗教のテンションになります)

(※ネタバレしかないよ!!!!!!)

 

 

 

柚木小太郎と御池万夜の話

 

私の初観劇は大阪初日のソワレで、それなのに会社の会議が全然定時に終わらなくて、なんなら定時後に会議始めるみたいなふざけたことをされて、会社にキレ散らかして泣きながら劇場までの道をビジネスパンプスで猛ダッシュしたんですけど、終わったあと別の意味で涙が止まらなくて、友達にずっと肩をぽんぽんしてもらっていた記憶があります。

 

私は、このふたりがメサイアになって卒業してくれると信じて疑ってませんでした。因縁も充分、卒業ミッションとして申し分のない障壁を抱え、それでも少しずつ、本当に少しずつお互いへの感情が変わっていき、そうしてメサイアになる。すごく自分勝手な話ですが、杉江大志が主演と言われようとも、「月詠」という神様の名前が付いている時点で、月詠乃刻は小太郎と万夜様の卒業の話だとすら思っていました。思い上がりも甚だしかったですね。でもそれくらい、私は小太郎の死がびっくりするほど受け入れられませんでしたし、今も完全に昇華できているわけではないです。でもあれが、運命だったんですよね。そう言われてしまったら、もう頷くことしかできません。

 

御池万夜は私の中で、途方もなく哀しい人という印象です。優しくて、健気で、誰よりも誰かを救いたいと思って、自分自身を犠牲にしてきた。

暁~悠久くらいまでは本当に可愛くないことばっかり言っていますが、あれら全てが「小太郎に殺してもらうため」だったのだとしたら、それはあまりにも悲しく、愛おしいです。嫌われて、遠ざけられて、なんの躊躇いもなく小太郎に終止符を打って欲しかったのかなあ。

どうして万夜様が「小太郎に」殺されたがったのか、を考えたとき、もちろん、悠久のハングドマンがそうであったように、今回の黎明ではユキがそうであったように、「どうせ死ぬなら自分の大切な人に手を下されたい」という気持ちがあったのかなあ、と思います。加えて万夜様は、今までたくさんの罪を犯してきたと言っている。その罪を、自分の神様である小太郎に裁いて欲しかったのかなあ、と思っていました。

コードエッジMAYOで、万夜様は快感報酬に全く反応しなくなるじゃないですか。快感報酬よりも、ずっとずっといい夢を見ている状態の万夜様。その夢が、お金持ちになったり権力を振りかざしたりしているものだったらまだよかったのに、万夜様が見ている夢って「小太郎といっしょに宿題をして、小太郎の柔道を大声で応援して、小太郎といっしょに夏祭りに行って」っていう、ごくごくありふれた、ふたりが照る日の杜に入らなければ、普通の子供や友人として出会っていたならば、当たり前に訪れたであろう日常なんです。その中で小太郎は万夜様のことを「万夜」って呼びます。コードエッジのお話の時間軸で言うならば、まだたったの一度も小太郎に「万夜」なんて呼ばれたことがなかったのに。

すごく、愛おしいじゃないですか。万夜様が望んでいたことがあまりにもささやかで、あまりにも優しくて、この世のたったひとりと下の名前で呼び合うだけの何気ない日常を望んでいたなんて知ってしまったら、そりゃあもう大号泣待ったなしですし、万夜様のこと大好きになります。でも照る日の杜にご神体として存在している以上「どんなに苦しい思いをしたって、僕の欲しいものは絶対手に入らない」んですよ。そういう意味では、月詠の最後、小太郎がたったの一言、万夜様の名前を呼んであげたことだけでも、とてつもなく大きな救いになったはずなんです。

 

対する小太郎は、本当にぽかぽかしたお日様が似合う人でした。

私の小太郎の一番好きなところは、月詠で小太郎が加々美とふたりきりで話す場面に「もしあいつの奪還が難しくなって、殺さなきゃいけなくなったら……俺にやらせてください。俺があいつの望みを叶えます」って言ってくれるところです。

万夜様を殺さなきゃいけない。その役を、小太郎は「万夜が望んだから」という理由で引き受けるんですよね。メサイアだから、っていうのはもちろんだと思いますが、その前に「万夜が望んだから」なんですよ。「僕はおまえに殺されたい」って万夜様が望んだから、小太郎は万夜様を殺すんです。あまりにも辛くないですか。

もうこの時点で、小太郎は万夜様のことを「特別な存在」だと言っていて、きっとメサイアとして認めてくれていると思います。その、自分にとっての救い主であり神様である万夜様がそう望んだから、小太郎自ら彼を手にかけることを決めるのはあまりにも酷くて、でもこの上ない愛情ゆえだと思っています。

 

月詠の最後、万夜様は小太郎の臓器を受け取って生きていくことを決めます。あれほどまでに「生きるのが辛い」「死にたい」と言っていた万夜様が、小太郎が「生きていて欲しい」と望んだから、生きることを決めるんです。小太郎が望んだ「万夜様が生きること」で、小太郎の魂を救おうとしてくれる。

メサイアだなって思いました。もう、誰がなんと言おうともメサイアだなって思わされました。……まあ、小太郎は死んじゃいましたけど。

 

 

杉浦レネと御池万夜の話

 

レネくんが登場したときの私の第一印象は、「なに気安く万夜とか呼んどんねん(過激派)」でした(笑)

ただでさえこのとき私はまだまだ思いっきり月詠を引き摺っていて、あれだけのものを見せられた中、万夜様に小太郎以外のメサイアができることを受け入れられていませんでした。しかも、小太郎が一回しか呼べなかった万夜様の名前を、さも当然のように……軽々しく呼ぶんですよ……震えるじゃないですか……(過激派)

 

それに加えて、万夜様の態度がもう、全てを物語っていました。おまえのことなんて受け入れるつもりはさらさらない、というのが、態度と声と表情全部で突き付けられて、一周回って、なんだかレネくんが可哀相にもなりました。なにもしてないのに、これだけ無関心にされるレネくん……なんかごめんね……。

 

黄昏のときのふたりは、本当に前途多難だったと思います。

一番やばいな、と思ったのは、万夜様がレネくんに対して完全に「無関心」だったことです。好きの反対は無関心、とか言いますけど、今までのメサイアたちって多かれ少なかれ相手になにかしらの感情を抱いてたじゃないですか。嫌いとか、ムカつくとか、そういうなにかはあったのに、万夜様からレネくんに対しての感情がなにもないんです。なにも感じないって言われちゃって、こっちがどうしよう……ってなりました。

でも台詞とかを聞いてると、万夜様の「言うことを聞け!」にもある通り、レネくんは自分で道を切り開ける圧倒的な太陽属性なんですよね。

家族が14人いるっていうのも、すごく引っ掛かりました。照る日の入信の条件が「家族になること」だったので。

つまり、レネくんにとっても万夜様にとっても「家族」って言葉はけっこう重要なのかなあ、と。

 

そして黄昏の最後で、レネくんが言ってくれた「なってやるよ、御池万夜。あんたのメサイアに。前のメサイアよりも頼れる男にな」っていうのが、今回の黎明にもすごく繋がっている気がします。

 

 

御池万夜と柚木小太郎と杉浦レネの話

 

黎明初見で死ぬほど泣いたのが、小太郎の肉声ですよ。まさかあんな演出がくると思わないじゃないですか……。一声目の「万夜、」で涙腺が崩壊しました。(万夜様は毎日あんなふうに自分の中の小太郎とお話してたのかな、って思ったらしんどすぎて呼吸できなくなりそうなので、そこらへんは考えないようにしてます)

 

黎明の半ばあたり、穂波と万夜様が話すシーンで、万夜様が初めて「レネ」と名前を口にしたシーンがありましたよね。

「あいつをメサイアだって認めたら、僕は小太郎を完全に忘れることになる。そんなこと……僕には絶対にできない」という台詞の、「僕には絶対にできない」の部分は、崚行くんのお芝居が毎回違うので、どういう感情での台詞になるのか、私の中でもあまり定まっていません。切なそうだったり、確固たる意志があったり、はたまた遠くを眺めてみたり。

けど、月詠の大楽で崚行くんが「周りの人間がその人のことを忘れてしまったとき、その人は完全に死ぬと思うんです」って言っていたのを思い出しました。崚行くんがそういう考えなら万夜様もそういう考えだと思ってるんですけど(メサイアは役と役者の境界線があいまいなので)、そういう意図であの台詞を考えると、万夜様が小太郎を忘れるっていうのは、小太郎を殺すっていうことと同義になるわけで、そりゃ絶対にできないよなあ……と思いました。

でも裏を返せば、レネくんをメサイアだって認められない理由は、その点のみなんですよ。きっと万夜様は、自分自身に対するレネくんの気持ちも、自分自身がレネくんに対している感情も、薄々わかっていたんじゃないかと思います。小太郎という存在が、万夜様の気持ちにストップをかけていたんですよね。それをきっと、穂波も気づいていました。

 

で、小太郎の肉声シーンに辿り着くわけなんですけど。

ここらへんの前後のシーンは全て、レネくんと万夜様各々に定点カメラ置いて追いかけたいくらい、ふたりともやばいです。

 

まずは、レネくんの「こいつのメサイアは俺じゃない。柚木小太郎って男だ」の台詞ですが、あの台詞をレネくんが言っているとき、万夜様はそれをレネくんの後ろで聞いています。その表情が、ものすごく泣きそうなんですよ。まるで自分が傷ついた、みたいな顔をしています。

きっと万夜様は、レネくんにそんなことを言って欲しくなかったんだと思います。認めてあげたいけど、認めたら小太郎を殺すことになる。メサイアは唯一無二で、ひとつとして代わりなんていない。レネくんが万夜様のメサイアになった時点で、小太郎は死ぬわけです。でも、レネくんが万夜様のことをちゃんと想って大切にしてくれていることは、今までの任務で充分過ぎるほどにわかっていたと思うんです。そうなったとき、自分の大切な人から「自分はあんたに大切にされてないんだ」って言葉を聞くのは、悲しいです。

 

けど、そこで救ってくれるのは、またしても小太郎なんですよね。

月と太陽はひとつになる。小太郎は、万夜様になった。つまり、小太郎が「レネを気に入っている」なら、それは、万夜様がレネを気に入っているからなんですよ。だって、自分なんですから。

そして小太郎は、自分を殺した上での御池万夜じゃなくて、自分たちふたりでの御池万夜のメサイアは、レネくんだって、言ってくれるんですよね。そのときの万夜様の表情は、私はきっと、ずっと忘れられないと思います。全てに許されたような、目の前に立つレネくんを、心底眩しいものでも見るかのように見上げるその表情は、紛れもなく太陽を見つけたときのそれなんだなあ、と思いました。

そのあとの、万夜様の構え、小太郎の背負い投げ、それにレネくんの「いけ!」が加わることで、ひとつ完成形が見えたような気がしました。

(大阪楽で、背負い投げの際、万夜様が一瞬だけ、自分の首元のプレートに触れるんですよ。フォロワーさんもそうだったよね!?って言ってたので間違いないと思うんですけど、それ見た瞬間、過呼吸になりそうなくらい泣きました。そういうとこやぞ、ながえりょ~き……)

 

レネくんはエンディング後のラスト、「守ってやるよ、おまえらのことは」と言ってくれるんですけど、きっとこれ、万夜様はレネくんにとてつもなく救われていると思うんですよね。小太郎を消してしまうのではなく、小太郎ごと万夜様を認めてくれるレネくんの姿は、紛れもなく太陽だと思います。

 

もし今後、レネくんと万夜様に卒業ミッションがくるなら、レネくんの過去への言及なのかなあ、と思います。

実は家族が14人もいたのに、全員死んでしまっているレネくん。それでもなお万夜様と「家族みたいになりたい」と言っていた意図。それを乗り越えられた、なんて私は到底思ってないんですけど、万夜様のことを「俺が守ってやる」「俺が守る」って何度も言っているあたり、家族を守れなかったか、家族に守られて自分はなにもできず家族を見殺しにしたか、くらいの過去があるんじゃないかと思っています。

それを経て、どうしてあんなに呆気からんとしているのか、そうせざるを得ない状況だったのか、以前のアメリカの工作員にはどうしてなったのか、などなど、不明なところが多すぎるんですよね……。

あと、レネくんは万夜様を守るって言ってくれていますし、月詠では小太郎にたくさん守ってもらった万夜様なので、卒業ミッションではレネくんを小太郎といっしょに助けに行く万夜様が見られたら、ふたりは本当に本当のメサイアになれるんじゃないのかなあ、と勝手に思っています^^

 

本当は穂波のこともまとめて書きたかったんですけど、穂波のこと喋ったら及川くんのことも喋らないと……ってなって、文字数が一万字超えてしまうのが容易に想像できたので諦めました。

魅力的な子が多すぎて困るねメサイア……。

 

明日から、いよいよ凱旋が始まりますね。キャストの皆さんが無事に駆け抜けられるよう願って、楽日の観劇を楽しみにしたいと思います!!すでにめちゃくちゃ寂しいんですけどね!!!

黎明乃刻を、雛森(時々ユキ)の立場で振り返るよ

メサイア黎明乃刻、大阪公演お疲れ様でした。

今は、大阪6公演を走り抜けた、なんとも言えない気持ちでこのまとめを書いています。

おうちで独りぼっちなのと、ここ最近の数日、当たり前のようにあったメサイアがまた一旦小休止を迎えてしまって、虚無です。さみしい。明日もまた、舞台があるような気がする。明日もまた、劇場に通ってるような気がする。

でも、お休みです。

 

前に、「雛森視点で黎明を追いたいな~」とぼやいたので、今、この大阪公演が終わった時点での感想を、自分の記録用としても残しておきたいと思います。

(前の記事はこれ↓)

stmuai25.hatenablog.com

 

 

雛森視点で、とか言いましたけど、たぶんそれだけに留まれなくて、ユキ視点が入ってくると思います。

 

黄昏までの雛森

雛森の登場は、悠久から。

百瀬さんと同期の雛森は、雛森曰く任務中に嵌められ(?)て、大怪我を追う。そのまま、5年間昏睡状態。やっと目覚めたが、当時のメサイアはもういなくなっており、小暮くんとメサイアを組まされる。

 

月詠では、雛森の前のメサイアであるユキが生きていたことが発覚。ただし、北方連合の工作員、つまり雛森の敵として再会することになる。

一方、自分自身が一嶋さんのクローンだと知ってしまい、「自分なんてどうでもいい」と自暴自棄になっている小暮くんに「おまえは死なせない、おまえは俺のメサイアだ」と言う。

 

黄昏では、北方連合でユキと再会をするも、今度は小暮くんが北方の手駒となり、小暮くんを連れ戻すことを誓って一旦日本へ帰国する。

 

 

黎明での雛森

黎明での雛森って、基本的に、常にユキと小暮くんの間で揺れてますよね。

 

オープニングに入る直前もそうなんですけど、雛森は自分の左側のホルスターに入っている銃を見つめて「俺のメサイア……か」と呟きます。

あの銃は、ユキの銃です。今まで雛森が二丁拳銃で戦っていたのは、ユキの銃を持っていたから。「二丁拳銃で戦いたい」と申し出たのは一慶さんだったかと思うので、この「ユキの銃を持っている」という設定は、後から付け加えられたものなんだと思います。

ユキの銃を見つめながら、俺のメサイアという言葉を呟く雛森。だけど、後ろには小暮くんがいました。雛森にとってのメサイアって、このときはふたりいるんですよね。小暮くんとユキが、雛森にとってのメサイアなんですよ。この時点で、雛森はすでにふたりのメサイアの間で揺れていました。

 

でもユキは北方にいて、自分の意志で雛森を拒絶し、北方のエージェントになっていました。月詠、黄昏と拒絶され続けているのに、それでもユキを諦めない雛森は、すごいと思います。きっとそれほどまでにユキのことが大切で、ユキに対しての大きな罪悪感を持っていたんだろうなあ、と思いました。

 

だからこそ、今のメサイアである小暮くんを救いたいって気持ちがすごくわかるんですけど、雛森は同時に、まだユキを連れ戻すってことも諦めてないんですよね。ユキのことを敵と見なせないし、まだ同じサクラとして戦えると思っている。なんなら、背中を預けることすらできそうな勢いです。

雛森って、本当に、ユキと小暮くんを選べないんだなあ、と思いました。どっちも救って、どっちもメサイアになるなんて、絶対に無理なのに。

 

ラスールと要に連れられて、雛森メサイアスーツを着たユキと再会したとき、雛森は心底信じられなくて、心底嬉しかったはずです。

あのとき救えなかったユキと、またこうして背中を合わせて戦うことができる。その気持ちは、雛森の表情からもよくわかりました。

けれど同時に、これって、ものすごい呪縛なんですよね。雛森自身が「こんなことでユキへの罪が償えるわけじゃないけど(みたいなニュアンスだったと思うんですけど……)」って言っているように、「自分はメサイアを見捨てた/救えなかった」っていう呪縛が、雛森の中にはずっと残ったままです。黄昏では「もし俺が逆の立場だったとしても恨みはしない、任務のためなら喜んでおまえに切り捨てられる」とまで言っている雛森が、ユキに対してはずっと罪を抱えたままなんですよ。雛森はすごくすごく優しいんだなあ、って思いましたし、同時に、自分のメサイアに対して抱くような感情じゃないなあ、とも思いました。

 

で、そのまま小暮くんとの戦闘になってしまうんですけど。

小暮くんに銃を返すとき、雛森は「俺だっておまえと同じだ。ずっと」と言います。これ、「ずっと」のあとになにか続くものがあるような気がしていて、その部分が雛森と小暮くんの共通点なんだろうなって感じました。

今思えば、この「ずっと」のあとに続くのは、雛森の弱さであり小暮くんの弱さでもあった「自分は誰でもない」っていうことだと思うんですけど、まだこのとき、雛森は小暮くんにその弱さを明言しないんですよね。

それって、小暮くんがまだ雛森に「救われる立場」であって「救う立場」ではないからかな、と思いました。

メサイアって、救うだけじゃだめなんですよ。相手に救われるのもまたメサイアであり、そのために自分の弱さもなにもかもを曝け出さないといけない。このときの雛森は、まだ小暮くんを「救う立場」なだけで、「救われる立場」じゃなかったんです。だから雛森は、自分の弱さを小暮くんに明言できなかったのかな、と思いました。

 

そのあと、雛森は言葉を尽くして小暮くんを助けようとするんですけど、その直前にユキを救うため小暮くんに一発撃ってるから、小暮くんは雛森のことを全然信じてくれません。銃を向けた雛森に対して「また俺を撃つつもりか」とまで言ってしまう小暮くん。

「俺を殺せ」って小暮くんが言うのは、たったひとり大切な存在になり得るかもしれなかった雛森に裏切られて、なにもかもがどうでもよくなってしまったがゆえの自暴自棄だったのかもしれないですけど、それでもきっと、雛森に殺されて楽になってしまいたい、という思いもあったように思います。

 

あのとき、雛森は小暮くんを撃つんですよ。自分の意志で、選択して、小暮くんを撃ちます。それはどれほど辛いことだっただろう、と思いますが、同時に小暮くんの願いを叶えてあげたいという、雛森の優しさも、ほんの少しはあったと思いたいです。

 

結局小暮くんを撃ち殺してしまった雛森は、そのあとその選択を死ぬほど後悔しました。

「俺はまた、諦めたんだ。俺はまた、自分のせいで、自分のメサイアを……」っていう台詞を聞いたとき、「もっと他にあったはずなんだ!」と叫ぶ雛森も相まって、めちゃくちゃ辛かったです。

小暮くんに斬りつけられてボロボロになりながら、それでも小暮くんを救いたいと考えていた雛森。でもそれでも、捉え方によったら、「相手を殺すという一番簡単な方法をとった」というふうに考えられなくもないですよね。自分が傷つきたくないから、相手を殺す。小暮くんも、一応それを望んでいたように見えます。だから殺した。なにも間違ってないはずなんですけど、雛森からすれば、小暮くんを救う方法を考えることを諦めたのと同義なんですよ。

そしてそれは、5年前のユキのときもそうです。一嶋さんに言われるがまま、雛森はユキの救出よりも任務を優先してしまった。考えることを諦めてしまった。だから「また」なんですよね。

 

このときユキは、雛森を抱き締めてくれます。雛森が選んだ選択肢は間違ってなかった、と言ってくれます。

でも、「『メサイアと命をかけて向き合う』。おまえは、俺の教えを体現した」って言われたとき、あれ?ってなりました。

 

そもそもここのシーン、会話があんまり成り立ってない印象を受けました。

雛森は小暮くんを救う方法を考えているのに、ユキは「おまえは強くなった」とか「俺の教えを体現した」とか、なんかちょっと違うような……?みたいな気持ちになりました。

ユキが「小暮のような悲しみを二度と生み出さないためにも」という発言に、雛森はやっと顔を上げて、ユキの手を取ります。

雛森が望んだ世界って、これなんですよ。小暮くんのような悲しみを二度と生み出さないために。その世界が、イコール、ユキの「誰もが手を取り合って共に生きていける世界」だと思ってるんです。

 

で、ちょっと場面は飛びますけど、雛森が真生光さんに本当の目的を教えられて、ユキに「いっしょに来ないか」と誘われるシーン。

真生光さんの本当の目的を聞いたときの雛森の表情って、「そんなの、駄目なんじゃないのか?」って感じの表情でした。

でもこの時点で雛森は、小暮くんは死んじゃったと思っているので、ユキ以外の選択肢はほぼ皆無です。加えて雛森の「俺はユキをひとりにしちゃいけないんだ」っていう台詞は、目的の内容を判断しているわけではなく、完全に判断基準が「ユキ」なんですよ。その選択肢がいいか悪いかではなく、ユキがいるかいないか、です。善悪の判断をすっ飛ばして、なんなら善悪の判断がユキの存在と同等くらいになっている。

これって、違いますよね。雛森が選んだんじゃなくて、そう選ばざるを得なくなってしまった状態だなって思いました。なんたって雛森は、ユキへの罪悪感に囚われているので。

でも一回、ユキは雛森を突き放すんです。「おまえを巻き込みたくない」って。でも、雛森には、ユキと一緒に行かないなんていう選択はできません。もう二度と、ユキをひとりにしちゃいけないと思っているので。

だからこれは、雛森が選んだようで、実際は全くそんなことないんですよ。選択肢なんて最初からなくて、雛森はユキと共に行くということをただ従順に守っているだけなんです。

 

ここらへんから、雛森は自分で考えることを本格的に放棄し始めます。「なにも考えなくていい」「黙って俺についてくればいい」と、他でもないユキから言われるので、それが雛森の中では全部正しい選択になるんですよ。それを選んでおけば大丈夫なんです。もう二度と、ユキをひとりにしないために。

 

今更ですけど、雛森の弱さは「選択できないこと」つまり、小暮くんと同じく「自分がないこと」だったのかなあ、と思います。

人生って、全て自分で選んだことの積み重ねですけど、自分で選択したからには必ずそこに責任がつきます。そして雛森は今まで、自分の選択で多くの後悔をしています。

一嶋さんの命令を守ったから、ユキを救えなかった。自分ひとりでユキを救いに敵地へ乗り込んだから、5年間眠ったままだった。

きっとまだまだあるでしょうけど、自分が選んだことのなにもかもが悪い方向に転がれば、選択することが怖くなります。自分の命と同じくらい大切なメサイアに関することなら尚更です。きっとこのときの雛森は、すごく弱かったんだろうな、と思いました。

自分の選択で招いた結果に責任をとることが怖いなら、誰かに決めてもらったほうが楽です。迷わなくていいし、自分で責任を負わなくていい。雛森に人間としての生き方を教えたというユキは、その選択をいつも正解に導いてくれます。だから雛森にとっての正解って、ユキのことなんですよ。ユキが言うことなら、間違いないんです。ユキの理想は雛森の理想、なんです。

 

きっとユキも、まだまだ弱かった雛森を導いてやらなければ、と思っていたと思います。ユキにとって、雛森は本当にまだまだ未熟な雛鳥だったんじゃないかなあ。きっと親が子に抱くような、庇護欲みたいなものもあったと思います。

自分が導いてやっていた雛鳥には、それに加えて罪悪感という縛りが付きました。もう、雛森がユキ以外を選ぶなんてこと、ほぼ有り得ないんです。

 

ガラの台詞に「生徒はいつか師を超える」とあります。

ユキは、雛森にとっての「心の師」でした。ユキは雛森をたくさん導いてやったと思うんですけど、でもそこに対等さってないんですよね。

でも、小暮くんと雛森を見たとき、小暮くんは雛森から「小暮洵として生きていくこと」を教わりましたし、雛森は小暮くんから「人は弱く、もがきながら、それでも過ちを犯す。でもだからこそ、支え合って生きていけるってこと」を学びました。お互いがお互いの先生であり、生徒でもある。超えられるし、越えられない関係であるからこそ、限りなく対等なんじゃないかと思います。

あと小暮くんは、雛森がユキを撃とうとしたとき、自分のことのように涙を流して苦しんでくれました。雛森にとってのユキはとても大切な人で、その人を自分の手にかけることが苦しくないはずがないですよね。その苦しみを、小暮くんは自分のことのように思ってくれる。悠久での有賀と加々美がそうであるように、メサイアって「おまえの痛みは俺の痛み」なんですよ。

だからユキはあのとき、雛森が小暮くんを殺してしまったと泣いたとき、雛森といっしょに小暮くんの死を悲しんであげるべきだったのかなあ、と、ふと思いました。

 

そういったことを総合すると、本物のメサイアになれるのは、雛森と小暮くんだったのかもしれないですよね。

 

これは本当に私の勝手な考えですが、ユキって雛森のことが大好きだったと思います。だからこそ「愛していた」という単語が出てきたんでしょうし。

大好きで、守ってやりたくて、愛したくて、そうした想いが「雛森を人形にしてしまう」ってことになってしまったのかなあ、と思いました。それがユキにとっての精一杯の愛し方でしたし、弱かった雛森はそうならざるを得なかったのかもしれません。

 

黄昏のサリュートの台詞に「強き者と弱き者、どちらが幸せなんだろうな」というものがあります。この意味を、ずっと考えていました。

ユキは間違いなく、「強き者」だったと思います。戦闘においても、北方に囚われてからの5年間を考えても、強くなければ生きていないと思います。でも、強くてひとりで立てるからこそ、誰かと寄り添っていくことが叶わなかった。

反対に、雛森も小暮もきっと「弱き者」です。でもだからこそ、ふたりで支え合って補い合って、生きていくことができます。弱いからこそ痛みを知って、相手を思いやることができたんだと思います。

そういう意味では、どちらが幸せかなんて、本当にわからないんですよね。

 

ひとつひとつの台詞、シーン、まだまだ書きたいことや整理したいことが山のようにあるのですが、大阪公演を終えてのユキと雛森のことを私なりにまとめると、こんなふうになりました。

また凱旋を見ると、違った感想になると思います。大阪公演でも思いましたが、演者のお芝居がどんどん変わるので!

 

残り凱旋だけとなってめちゃくちゃ寂しいのですが、残りの黎明を目一杯楽しみたいです!

 

 

黎明乃刻を、小暮くんの立ち場で振り返るよ

黎明乃刻、東京公演お疲れさまでした~~~!!!!!

 

思えば黄昏から約半年、黎明という夜明けをずっと待ち続けていました。

刻シリーズ完結と言われ、毛利さんと西森さんが卒業すると言われ、あまりの絶望に打ちひしがれていたんですけど、それでもやっぱり大好きなシリーズの新作舞台は、なににも代えがたいほどに嬉しいです。観劇できて幸せです!

 

私は、9月5日の初日以外の東京公演5公演を観劇したのですが、反復するごとに内容がわかって、色んな気づきもあったので、自分の中で整理をして大阪公演に挑むためにも、ちょっとここでまとめてみようかと思いました。

私が感じた勝手な考察と感想を含めていますが、ネタバレしかないので、ネタバレ嫌な人はお戻りください。

 

黎明の主演のふたりがどう足掻いてもキーパーソンなので、まずは小暮くんの視点で黎明を整理することにします~~~

 

 

 

◎小暮くんとして見た黎明

黄昏までの小暮くん

一嶋係長のクローンである小暮くん。

暁のときの設定では、製薬会社の元職員で感情表出が乏しく自意識が希薄。一度死んでいますが、死因は不明というものでした。

悠久で雛森というメサイアを経て、一嶋係長に(たぶん)クローンであることを教えられる。

月詠で、自分が酷い人体実験を受けて、周りのクローンたちもバタバタ死んでいったという壮絶な記憶を思い出す。自分のには存在価値がないのだと喚くも、そこに雛森の「おまえを死なせない」という言葉を与えられて、雛森に少しずつ心を開き始める。

そして黄昏で、少しずつ心を寄せていた雛森への思いも記憶も全部リセットされて、北方の駒になります。

 

黎明での小暮くん

記憶と、やっと自分自身の「小暮洵」としての人格を取り戻した小暮くん。

でも最初の登場シーン、あれは小暮くんの深層心理なのかな、あれを見る限りでは全然ハッピーじゃなかったし、逆に死ぬほど辛そうでした。

白い人たちが小暮くんを囲むシーンを見ていて、あの白い人は小暮くんなのだなあ、と漠然と思いました。黄昏のあの、小暮くんに手を伸ばしてくれた雛森を刺すシーンの回想では、雛森の動きとシンクロして倒れるので雛森なのかなあ、とも思ったんですけど、でもあれは小暮くん自身だと思います。

この作品の中で、雛森の存在だけが小暮くんを小暮くんたらしめるものです。まあ、それがメサイアかなあ、とも思うので。その雛森を撃ち殺すってことは、イコール小暮くんのことを認めてくれている存在を消すってことになるので、つまり小暮くん自身も死ぬんですよね。小暮くんという存在が、雛森が死ぬということによっても表現されているのかなあ、と思っていました。

でもこのときの小暮くんは、そのことにまだ気づいていません。

 

そのあとチャーチで雛森と再会して、現実でも雛森を殺そうとする。

このときの小暮くんって、本人はあとから自覚してましたけど「自分がどんなに苦しいのかわかってほしかった」って、本当にその状態に尽きるんですよね。

俺って、こんなに可哀想なんだよ。つらいでしょ。かなしいでしょ。だから俺のために全部差し出してよ。

みたいな感じかなあって思いました。優しくされたかった、っていうとまたちょっと違う感じがするんですけど、「認めてもらいたかった」っていうのがやっぱり合ってるのかなあ。

あと、本当に「誰か」である自分になるためには、小暮くんのオリジナルである一嶋係長とそれに付随するものを消す必要があると考えたんじゃないですかね。自分をクローン扱いした奴みんな消えれば、自分はクローンじゃなくなるじゃんって考えなのかな……。

 

で、そのシーンは一旦、ラスールくんと要くんの登場でお開きになるんですけど、その次に私が一番「小暮くん可哀想」って思ったのは、メサイアスーツ着たユキが現れたときですかね……。

まじで呼吸を忘れて、やっぱ毛利さんそうくるんだって思いましたけど、私が小暮だったら一番嫌な展開でした。いや、もちろん雛森を殺しちゃうとか、そういうのが一番嫌な展開なんですけど。

 

小暮くんはクローンで、本人の言葉を借りるなら「自分が死んでも悲しんでくれる友人も家族もいない」状態なんですよ。

そんな中で、小暮くんの存在を唯一認めてくれたのが雛森だった。小暮くんには、もう雛森しかいないんです。自分をクローンたらしめるのは雛森かもしれないけど、同時に自分を自分として一番認めてくれているのも雛森です。小暮くんの一番は、どう足掻いたって雛森以外にいないんですよね。

 

でもその雛森には、小暮くんじゃない唯一がいる。

あまりにも悲しくて、嗚咽漏らしそうになりました……。

 

自分が一番心を割いている相手に、自分を一番に想ってもらえないのは、照る日の杜の穂波もそうだよなあって思いますけど、穂波はまだ、及川くんとか信者の人とかに慕われているので、自分のアイデンティティはあったのかなあと思います。

 

でも小暮くんは違うじゃないですか。この世界で、ひとりぼっちじゃないですか。

自分が一番求めている相手は、全然違う相手と心底楽しそうにしてるんですよ。まるで自分の存在なんてどうでもいいみたいに。ちょっとした拷問かな?って思いました。

 

だから私は、雛森の傷がユキと再会したことで癒えるのを「よかったなあ?」って今にも泣き出しそうな声で言う小暮くんが、一等つらかったです。

小暮くんにとってのユキって、雛森を自分から奪った相手な訳で、そんな相手と雛森が庇い合ってたら、そりゃイライラします。たぶん死ぬほどつらいだろうけど、小暮くんの場合はそれがイライラだって思っちゃったんですよね。自分のことイライラさせるもの、全部消しちゃいたかったんだと思います。

だからあのシーンの殺陣は、ユキを狙うことが多かった。小暮くんがユキを狙えば雛森が庇うし、それでまたイライラして……っていう負のループですよ……つら……。

 

小暮くんからしたら、雛森がユキを庇っている時点で、雛森に裏切られたも同然なんですよね。「俺のこと救うって言ったくせに、なんで他の奴大切にしてんの?」っていう嫉妬もあったんじゃないかなあ。

認めてくれるのかな、信じてくれるのかな、自分を一番大切にしてくれるのかな、って思っていた相手に裏切られて、そうでなくても小暮くんは自分を大切にしてくれる人なんていないって思ってるんだから、一度裏切られた雛森に「おまえのことを救いたい」ってもう一度言われても、「今更なにもかも遅い」って思っちゃうんですよ。

「俺を殺せ」って言っていた小暮くんは、もうなにも信じられなかったのかもしれません。いっそ死んだほうが楽かも、とかも思っていたのかもしれないです。あのときそう言って、自分のメサイアに殺されることを望んだので。

 

で、そのまま雛森に撃たれてしまうんですけど。

でもあのシーンの一慶さんのお芝居、本当に見事で心痛すぎました。

死んでしまった(と思っている)小暮くんの身体に縋って、その身体を抱き締めて、まるで壊れ物を扱うみたいな手で震えながら小暮くんの頬を撫でてくれるんですよ。あのシーン思い出しても泣いちゃうんですけど、もしあの体温を小暮くんが朦朧とする意識の中でも覚えていたのなら、きっともう一度、雛森のこと信じてもいいんじゃないかなって思ってくれたような気がします。

雛森は確かに小暮くんの死を悲しんで、涙を流してくれたし、ラスールくんに引きずられてしまうほど、小暮くんの傍から離れようとしなかった。

 

だからかどうかはわからないですが、そのあとの小暮くんの深層心理の変化は顕著でした。

 

(小暮くん自身?と思われる)白い人と対峙する関係で描かれた深層心理は、小暮くんの心境の変化が大きかったように思います。

雛森に裏切られたという気持ちと、雛森をもう一度信じたいという気持ちの間で揺れ動く小暮くん。

「おまえには代わりがいる」「おまえは必要ない」と、自分自身に突きつけられて、それでもそれから這い上がりたい、心の奥の奥の小暮くんが、白い人に襲われます。きっとここで「助けて」という言葉を口に出せたのは大きいんじゃないかなあ、と思いました。この言葉を、咄嗟にでも口にできたことで、小暮くんは雛森を殺したいんじゃなくて、雛森に救ってほしかったんだなってことを、自覚したんじゃないかなあ。

だって小暮くんという存在を認めてくれるのはもう、雛森だけなんですよ。小暮くんが一番心を割いているのは雛森で、雛森という存在が小暮くんの存在を認めてくれるんですよ。だったらやっぱり縋りたくなるし、救ってほしくなるし、伸ばされた手を取りたくなる。

そして小暮くんは、雛森に手を伸ばしたい自分、雛森メサイアになりたいと思っている自分がいることを認めました。

これって、すごい大きな進歩ですよね。傷つくのがこわくて周り全部を傷つけていた小暮くんが、傷ついても雛森の手を取りたいなって思ってくれて、そんな自分がいることに素直になってくれたんですよ。それほどまでに、小暮くんにとって雛森は大きいんだなあって、思いました。

黄昏のとき、サリュートが言っていた「自分が傷つかないために、誰かを傷つけるのか」っていう台詞が浮かんで、ちょっとじんわりキてしまいました。

 

たぶんですけど、世界中の誰に認められなくても、たったひとり雛森に「おまえはこの世界に生きていていいんだ」って言ってもらえたら、小暮くんはそれで充分すぎるほど救われたと思います。

それくらいの存在なのかな、メサイアって。

 

小暮くんがひとり、自分の本当の気持ちを認めてあげるシーンは、真一くんと小暮くんが、一慶さんの雛森と本物のメサイアになるという決意の土台になる、最高のシーンでした。じんわり、自分に言い聞かせるように、そうであることをちゃんと理解して実感させるように呟かれる台詞のひとつひとつがめちゃくちゃ重くて、また泣きました(涙腺がすでにガバガバなのでだめです)

 

でもそんな決意を固めたのに、雛森はユキといっしょに行こうとしちゃうんですよ……。

ユキたちの本当の目的を知ったとき、普段の雛森だったならきっと、相手といっしょに行こうとはしなかったと思います。それぐらいの冷静な判断は、雛森ひとりなら充分できるはずなんです。

でも、そのときの雛森にはそれができなかった。それを、小暮くんはおかしいなって、ちゃんと思えたんですよね。雛森だったら、わかってるはずなのにって。

 

雛森を必死に呼んで、それでも雛森に「おまえの好きなように生きろ」って言われて自分の拳銃を目の前に置かれたときの小暮くんの気持ちを思うと、死にそうになります。

「おまえの好きなように生きろ」って、捉え方によったら「おまえは俺とは関係ない」っていう見捨てられる意味にもとれるじゃないですか。

雛森ほんとそういうとこあるんですけど、月詠でも、自分はクローンだって苦しんでる小暮くんに「それがどうしたんだ」っていうじゃないですか……おまえ……もっと他に言い方があっただろ……って思っちゃうんですよね……おまえ、ほんとそういうとこだぞ……)

小暮くんはここで、もう一度雛森に裏切られるんですよ。

でも、このときの雛森は普通じゃない。普通じゃないし、ユキといっしょに行けばもっと大変なことになる。それがわかっているから、小暮くんは雛森を取り戻すことを諦めなかった。

ユキへの罪悪感に雁字搦めにされた雛森のことを、小暮くんはちゃんとわかっていました。だからこそ雛森に対する小暮くんの台詞が「俺といっしょに生きよう」っていうユキみたいなものじゃなくて、「ユキとはいっしょに行かせない」っていう、雛森の選択肢を彼に残してあげるものだったのかなあ、と思います。

 

でも、雛森を取り戻すためには、代わりがある「一嶋晴海のクローン」ではだめで、代わりのいない「雛森メサイア」として雛森を迎えに行かないといけない。一嶋係長に「いつまで駄々を捏ねているつもりですか」って言われても、仕方ないと思います。自分自身で自分のことをちゃんと認めていないのであれば、いくら誰かに認めてもらっても意味ないですもんね。

その中で、一嶋さんと小暮くんのあのシーンは本当に大きかったと思います。

 

「自分だけが誰でもないと思うな みんな藻掻きながら、誰かになる」

私、この台詞が黎明一と言っても過言ではないくらいに大好きなんですけど、小暮くんは小暮くんだけが世界一苦しいんじゃないし、その苦しみを一方的にぶつけて分かってもらおうなんて考えちゃいけないってことを、ちゃんとわからないといけなかったんですよね……。雛森が抱えていたことも含めて、自分と相手の苦しみを委ね合ってこそメサイアなので。

 

雛森のことを取り戻そうと言葉を尽くすシーンなんですけど、あそこの殺陣、本当に変わったなあって思いました。

小暮くん、ほとんど雛森に向かっていくんですよね。その手を引いて連れ戻そうとして、それをユキに阻止されるっていう構図が多くて、当初ユキを殺そうとしていた小暮くんとは、全然違うんですよ……。

雛森がユキを大切にしていることもきちんとわかっていて、その上で、雛森に選んでもらうという形で雛森を連れ戻そうとしているところが、最高に小暮くんの成長を感じました。ちゃんと、雛森のことを考えられるようになったんだなあ、って思って、めちゃくちゃ嬉しかったです。

 

雛森の台詞の「人は弱いし、過ちを犯すけど、だからこそ支え合って生きていける(ニュアンスこんな感じだった気がする)」って、まさに小暮くんと雛森のことなんですよ。

お互いに弱くて、お互いにたくさん間違っちゃうけど、それでもお互いの手を引いて支え合ってるんですよね。

 

クライマックス3人の戦闘は、まじで毛利さん鬼だなって思いましたけど、雛森が小暮くんの銃を使ってくれたのが本当に嬉しかったです。

今まで、雛森の左側のホルスターに入っていたのはユキの銃でしたけど、この殺陣の中では、雛森の左手には小暮くんの銃があったので。雛森と小暮くんがちゃんとメサイアになった証のように思いました。

 

あと、ラストの小暮くんの「俺たちなら」って言いながら、雛森の左側の拳銃(ユキのもの)に手を添えるところも最高でしたよね!!!!!!

ユキの存在もふたりで背負って生きていくんですよ、雛森と小暮くんは……。

 

雛森が最後に「おまえのことは、」って言いかけたところを、小暮くんが「俺が守る」って言ってくれたところも、ふたりの関係が完全に対等になったように感じました。

今まではどちらかというと、雛森が小暮くんを助けたり導いたりする内容が多かったですが、小暮くんだってちゃんと雛森を守りたいと思ってくれているし、自分はそう在るべきだと思ってくれている。これって、メサイアですよね。メサイアを助けられるのは、メサイアだけなんですよ。

 

月詠ED後の百瀬さんの台詞の「小暮くんに救われるのは、あなた(雛森)かもしれないわね」っていうのを、こんな形で叶えてもらえるなんて思ってもみなかったです。

途中、なんでこんな思いをしなくちゃいけないんだ?って思うくらいしんどいんですけど、ラストでちゃんと救ってくれるので、やっぱりメサイアだなあって思いました(笑)

 

一慶さんがカテコでおっしゃってましたが、本当にこの黎明は「人の弱さ」みたいところがすごく表現された舞台なのかなって思います。なにかに手を伸ばすことって、実はすごく難しいんだなあ、と思いました。

 

主演のふたりはもちろんですが、他キャストもまじで命削ってない?って思わせられるところたくさんあるので、大阪公演もめちゃくちゃ楽しみです^^

これは東京公演終了時の、小暮くんの視点に沿って書いた感想なので、たぶん大阪と凱旋でまた感想はガラリと変わると思いますし、次は雛森視点であらすじ追うのも楽しそうだなって思いました。

 

大阪と凱旋楽しみだなあ!そして、西森さんのお話聞くのもめっちゃ楽しみ!